和三盆について

始まりのおはなし

始まりのおはなし

 

三谷製糖羽根さぬき本舗は、文化元年に創業いたしました。

江戸時代半ば、最初に五軒の家が和三盆の作り方を秘伝として伝授されたのですが、しだいに減り、当店のみが今にその製法を伝えています。

 

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文化元年(1804年)の創業を裏付ける文書が三谷家に残っている。

この文書は砂糖製法を庄屋、坂東伝右衛門を通して藩へ願い出たもので、五件の家が名を連ねている 。

 

和三盆は時の将軍吉宗公が糖業を推奨する中から生まれたものです。

高松藩は将軍家の親藩であったため、時の五代藩主頼恭(よりたか)は、幕府の命に応えるべく、藩医を砂糖づくりに当たらせました。

しかし、良質の「種きび」が入手できなかったため、さとうきびの栽培はうまくいかないまま時が過ぎ、池田玄丈(いけだげんじょう)、その門下生の向山周慶(さきやましゅうけい)に引き継がれてもなお、完成までにはいたりませんでした。

それを救ったのが、奄美大島からお遍路に来ていた「良助」です。

お遍路の途中、病で行き倒れになっていた良助を、医師であった向山周慶が助けました。その恩返しとして、良助は奄美大島へ戻り、国外不出の種きびを弁当箱にしのばせ、打ち首覚悟で讃岐に持ち帰ったのです。

当時、砂糖は沖縄と奄美大島でしか作られておらず、製法の漏洩は国禁を犯す大罪でした。しかし、良助の持ち出した種きびのおかげで、さとうきびの栽培は成功しました。

 

しかし、命がけで入手した種きびはあっても、気候や地形の違いから奄美大島と同様の黒砂糖には仕上がりませんでした。

そこで研究されたのが「糖蜜を抜く」という方法でした。こうして今の和三盆の原型ができあがりました。くせのない、結晶の柔らかい、温かい甘味の、それまでの砂糖にはなかった独特のうま味をもつ和三盆糖がここに誕生したのです。

 

その後、製法は直系の者だけで受け継がれ、口外すれば死罪という厳しいものでした。できあがった和三盆糖は高松藩に全て納めていたので、藩の特産品であるにもかかわらず、地元の人にはその存在すら知られていないという状態が長く続いてゆきました。

 

そのような閉鎖的な状況が続いた為、長い歴史を経て和三盆の製法を伝授された家は次第に減っていき、今に受け継ぐのは当家のみとなったのです。

 

※これは「讃岐和三盆糖」の歴史です。「阿波和三盆糖」とは異なります。

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